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一冊のアルバムを大切にのこしていくために〜芋っ子ヨッチャンのアルバムが修復されるまで〜


第一回「影山光洋氏と芋っ子ヨッチャンのアルバム」

芋っ子ヨッチャンの一生 1 近代日本を代表する報道写真家のひとり、影山光洋という写真家をご存知でしょうか? 戦時中、朝日新聞社の花形カメラマンとして世界中を飛び回り、その状況を克明にフィルムへ焼き付け、戦後はフリーカメラマンとして急速に変わりゆく日本の姿を追った、その人。彼は、まさに「記録写真の鬼」と称されました。「ある報道写真家の見た昭和30年史」や「昭和の女」など、数々の名作を世に残した影山氏ですが、とりわけ彼の一番の傑作と言われるひとつの作品があります。それが『芋っ子ヨッチャンの一生 五年二ヶ月涙の記録』。影山家のごく私的な日常を綴ったアルバムです。

ヨッチャンこと、影山賀彦(よしひこ)さんは、影山家の三男坊。光洋氏は、終戦を迎えた翌日に朝日新聞を退社し、一家全員で神奈川県の藤沢市に住まいを移しましたが、ヨッチャンが生まれたのは、そんな藤沢での生活がはじまってからのことでした。時代は戦後で、言わずもがな厳しい食糧難の日本。実は、このアルバムは1995年に新潮社より写真集として出版されており(現在は残念ながら絶版)、その写真集のページをめくれば、決して豊かではないけれど愛に溢れた日常を伺い知る事ができます。日々訪れる小さな幸せを、家族みんなで大事に大事に掬い上げる。ささやかながら満ち足りた影山家の記録、写真にうつる家族の笑顔に、写真集のページを繰るこちらも思わず笑みがこぼれます。しかし、そんな家族に突然訪れた悲 しい出来事、ヨッチャンの病気、そして短い一生に幕を下ろすこととなった、死。死因は結核性脳膜炎でした。

芋っ子ヨッチャンの一生 2

芋っ子ヨッチャンの一生 3 写真集には、その表紙にもなっている印象的な一枚があります。両手で大きなお芋を大事そうに抱えたヨッチャン。家の前庭で一家総動員で育てた、サツマイモ収穫中の一コマです。ヨッチャンの大好物はそのお芋でした。離乳を迎えたときから、ずっと芋で育ってきたヨッチャンは、亡くなる2日前、水も受け付けなかったときでさえ「ヨッチャンは芋っ子だから、オイモ食べる」とサツマイモだけは喜んで食べたといいます。

ヨッチャンの死から70年が経った今、目覚ましい成長を遂げた日本は飽食の時代とまでいわれるようになりました。しかし、世界中では今もなお、ヨッチャンと同じように戦争や飢饉によって幼い命が奪われ続けています。もはやこの写真集は、影山家の単なる私的な記録ではなく、日本、そして世界中の人々にとって大きな意味を持つアルバムなのです。

芋っ子ヨッチャンの一生 4

光洋氏は、アルバムの最後にこんな言葉をのこしています。

『これも父親が生涯の生業とした写真家ならば出来たことで、何ひとつ充分なことをやれぬうちに先だって逝った幼な子に、父親が捧げ得る唯一の貧しい贈り物である』

2011年3月11日の大震災以後、大きな大きな転換期を迎えている日本。今後、あらゆる厳しい状況が予想されるなかで、いつだって私たちが帰ってこられる場所、それが家族のはずです。そんな家族の愛の証としての贈り物、アルバムが、こんなにもかけがえの無いものなのだと教えてくれる『芋っ子ヨッチャンの一生 五年二ヶ月涙の記録』。この一冊をちゃんと次の世代へと継いでいくために、末永くのこしていくために、ナカバヤシさんは修復に乗り出したのです。

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